(4) お風呂屋さん
語り部:大江久也(昭和5年生)
昭和6年に私の父がこの地にあった銭湯を引き継いで開業しました。現在は息子が継いでいますが、父子三代は中野でも珍しいと言われます。
幸運にも戦災に会わなかったので、はるか遠
くから子ども連れで入りに来ましたね。戦時中は燃料が無くて、町内のゴミ箱から燃やせるものを集めたり、大八車を引いておが屑を取りに行ったりもしました。十貫坂がきつくてね。昭和30年頃に、オート三輪の免許を取って、深川の木場まで廃材を買いに行きました。車1台分くらいの値段なので、荷台の材木を踏み付けて、少しでも多く積もうとしました。
正月をのんびり過ごしたことはないですね。大晦日は、店を閉めてから来る商店街の人や初詣を済ませて来る人が多く、元日の空が明るくなるまで開けていました。2日は初湯で朝から開店するので、休む間もなく掃除と釜炊きに追われていました。今は湯の温度も自動調整で、「おーい、ぬるいよ!」なんて湯船から声がかかることも無くなりました。
子どもの頃一番辛かったのは、学校から帰ると下足番をさせられたことですかね。サボっているとすぐ履物が入り口に溜まってしまい大変でした。
昭和7年に新しい煙突が完成した銭湯
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