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鍋横物語 (第4章)  
  鍋横物語
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第1章
第2章
第3章
第4章
1 鍋屋横丁界隈
2 賑わいのあった鍋横商店街
3 銀杏が見ていた風景
4 地域の人の憩いの場
5 水車のある風景
6 川と田んぼ
7 地域センターの辺り
8 周年行事を迎えて
9 時代
 (1) 手にくっついた茶碗
 (2) 配給切符制
 (3) 神谷酒場の電気プランと煮込み
 (4) 西町花の公園の由来


(3) 神谷酒場(バー)の電気プランと煮込み

語り部::神谷 光太郎(昭和22年生)


 戦前から酒屋だった親父がここにカウンター式の立ち飲みバーを開店したのは、戦後5〜6年たってからです。
 東京で最初のバーとして知られる浅草の「神谷バー」との関係は、神谷酒場の経営者と名前も郷里も同じことと、電気ブラン(約100年前に登場した、ブランデーベースにジンや薬草などを入れたアルコール30度のカクテル)や蜂葡萄酒を仕入れていた関係で名称を使用することを認めてもらったと聞いています。
 当時のつまみはピーナッツ・塩豆などの乾き物が多かったのですが、うちは親父が作る煮込みが評判でした。韓国人の店からきれいに下処理してもらった鶏肉を仕入れ、二種類の味噌を使い秘伝の味付けをしていたからです。昭和30〜40年頃は2階の座敷で宴会がよくあり、酔っ払いが夜遅くまで騒ぐのでなかなか眠れなかった記憶があります。当時ご馳走だった鶏のもも肉や海老フライなどが、余ったときにはよく食べました。そのせいか、今では全くダメですね。酒屋の後は継ぎましたが、バーは親父の高齢化と鶏肉屋の閉店などで昭和60年頃閉じました。常連さんが作った神谷会があったと聞いていますが、そのメンバーが何人か地域にいるかと思うと嬉しいですね。

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