(1) 昭和初期の洋食屋
語り部:小倉一祐(明治41年生)
私が鍋横交差点近くに洋食レストランを開いたのは昭和3年、20歳のときです。当時、中野駅北口一帯に陸軍の電信隊があったのですが、駅周辺には旅館が2軒あるだけで、中野の中心といえば鍋横から宝仙寺周辺だったんです。休日になると兵隊たちが追分通りから鍋横周辺に繰り出し、大変にぎわっていました。とりわけカレー軒は美人のウエートレスがいたので、兵隊たちに人気があり繁盛していました。
私の店は上野精養軒の御料理として日替わりメニューを出したことが評判となり、大勢の文士の方によく利用されました。トイレを水洗にしたり、電気冷蔵庫をいれたのも中野で最初でね。
文士の事で思い出すのはナップ(NAPF:全日本無産者芸術団体協議会)や、中野会(中央線沿線に住んでいた文士の集まり)の人たちです。中野会は発会式もうちでやりましたし、毎月集まっていましたね。確か、詩人の春山行夫(1902年〜1994年)と百田宗治(1893〜1955年)が幹事をしていました。なかでも作家の伊藤整(1905〜1969年)は、近くに住んでいたこともあって毎日のように来ていましたね。
店では当時としては珍しいナイフとフォークを使っていたので会合が終わると数を確認していました。ある文士さんたちの会合の後でナイフが足りないときがあり、文士さんに言うわけにもいかないのでそっと勘定書に上乗せしておきました。そうしたら、文士の間で調べたそうで、ある著名な作家が持っていったのが分かりました。多分よく切れるので紙切りがわりにでも使おうと思ったのでしょうね。
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