(2) カッパの干場
語り部:三ツ木いと(大正3年生)
生まれも育ちも中央です。幼い頃、今の野津医院(本町6−20)付近一帯に芝生の原っぱがあって、よく、バッタを追ったり鬼ごっこをして遊びました。“カッパの干場”と呼ばれて、一面に油紙の厚いのが干してありました。雨合羽をつくっていたんですね。干し終ると、荷馬車で日本橋まで運んでいました。
当時、青梅街道は路面電車も走っていました。今よりずっと道幅が狭く、電車の窓から軒下の花がつめるくらいでした。関東大震災の前は家が少なく、麦や野菜を作る畑が多かったです。震災後、下町の方から人が移ってきて家が増えた為と、合羽の需要が減った為、いつの間にか“カッパの干場”もなくなってしまいました。私の通っていた桃園第三小学校でも、震災後、生徒が増えたので学校近くのれんげ畑で、青空の下、交代制で勉強したりしました。
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