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  鍋横物語
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第1章
第2章
第3章
1 道・街道・道路
2 商いを通して見た街
3 空き地は社交の場
4 まちの情景・風物
5 まちが変わる ―関東大震災・第二次世界大戦によって―
 (1) 怖かった関東大震災
 (2) カッパの干し場
 (3) 買出し
 (4) バラエティに富んだ物売り(行商)
 (5) まちが変わった日
6 歴史を移す≪お題目石の移設≫
7 歴史を掘る≪転車台の現れた日≫
8 懐かしくありませんか?
 
第4章


(4) バラエティに富んだ物売り(行商)

 語り部:鹿山和夫(大正8年生)


 

 関東大震災の後、中野にやってきました。当時の青梅街道は電車やバス、馬車などが行き来する物流の道でした。その道を渡って桃園第三小学校へ通うのを母が心配して、現在地(中央5−10)に越してきました。中央西公園になっている所は以前、土屋子爵のお屋敷があり、元海運会社の敷地には河野邸があったりと、多くのお屋敷がありました。空き地や畑もまだ多く、家の囲い塀もなく自由に駆け回り、メンコやベーゴマをして遊んだり、毎日のように紙芝居屋がいて1銭、2銭で飴を買って見ていました。鍋横の東横バスの転車台に乗って遊んだりもしましたね。
 当時は朝早くに納豆、豆腐やあさり・しじみ等の売り声が聞こえ、昼間八百屋、魚屋、薬屋さんが来ました。初夏の金魚売の声に季節を感じ蒸気でキセルのやにを取る「ラオ屋」の笛の音が時々聞こえました。随分と様々な物売り(行商)が来ていました。今では考えられませんが、電気は日中送られず、夕方から朝まで送られました。ラジオ放送が始まった頃は親父が作った「鉱石受信機(ラジオ)」を聞きました。今となっては懐かしい思い出です。

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