(4) バラエティに富んだ物売り(行商)
語り部:鹿山和夫(大正8年生)
関東大震災の後、中野にやってきました。当時の青梅街道は電車やバス、馬車などが行き来する物流の道でした。その道を渡って桃園第三小学校へ通うのを母が心配して、現在地(中央5−10)に越してきました。中央西公園になっている所は以前、土屋子爵のお屋敷があり、元海運会社の敷地には河野邸があったりと、多くのお屋敷がありました。空き地や畑もまだ多く、家の囲い塀もなく自由に駆け回り、メンコやベーゴマをして遊んだり、毎日のように紙芝居屋がいて1銭、2銭で飴を買って見ていました。鍋横の東横バスの転車台に乗って遊んだりもしましたね。
当時は朝早くに納豆、豆腐やあさり・しじみ等の売り声が聞こえ、昼間八百屋、魚屋、薬屋さんが来ました。初夏の金魚売の声に季節を感じ蒸気でキセルのやにを取る「ラオ屋」の笛の音が時々聞こえました。随分と様々な物売り(行商)が来ていました。今では考えられませんが、電気は日中送られず、夕方から朝まで送られました。ラジオ放送が始まった頃は親父が作った「鉱石受信機(ラジオ)」を聞きました。今となっては懐かしい思い出です。
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