(4) 富士見八イム(旧榎本武揚邸)
本町5-30・杉並区和田1-57
富士見ハイムができたのは昭和42年で以後は変わっていません。昔、榎本武揚の邸があったこと、その後「くず鉄王」といわれた松庫商店の社長の所有になり、当時テニスコートがあった、広いグランドだったので子どもの頃よく遊んだ、戸田建設が資材置き場にしていたなどの話を、広い年齢層の人びとから聞きました。
小林保雄・談
榎本武揚邸―なべよこ観察隊の活動が新聞数紙の都内版で紹介された折、榎本武揚の邸もあったとの記事に目をとめた武揚の曽孫にあたる榎本隆充さんが連絡をくださり、鍋横地域センターに訪ねてこられました。榎本家の邸が向島、小田原、中野にあったと聞いていたが、隆充さん自身は中野のこの地を訪れるのは初めてとのことでした。地域では榎本武揚邸と伝えられていますが、武揚自身が住んでいたことはなく、武揚の長男武憲氏一家が住んでいたそうです。
武憲氏の次男であり隆充さんの父である武英さんは、ここから旧制六中(現新宿高校)に通っていたそうです。邸内には柔道場があり、日本で最初のスプリングを使った床を備えた道場だったとのこと。地域に長く住んでいる津田正治(80歳)さんは、小学校に上がる前にこの道場で遊んだことをよく覚えているとのことです。また、「若様」と古くから地域に住んでいる人に記憶されているのは、武憲氏の長男清武さんではないかとのことです。
「若様と呼ばれる武揚のお孫さんが爺やさんと住んでいました。お孫さんといっても当時の私から見れば小父さんって感じの年でしたね。」
田口ぎん・談
「武揚のたしかお孫さんという、背がとっても高くて、武士みたいな眉の濃い立派な顔立ちの方がいらっしゃいました。また、榎本邸には食客のような人がいっぱいいて、2日に1俵くらいのお米を届けていたと父が言っていました。」
中野の榎本邸で、当主武憲氏とその次男武英氏
榎本武揚(1836〜1908)
明治時代の政治家。日本海軍建設者の一人。 1853年幕府の海軍伝習生として長崎に学び、1858年江戸に戻って海運操練所教授となる。 1861年幕府艦開陽丸の建造監督をかねオランダに留学、帰国後、幕府海軍の重鎮となる。
1868年政府軍が江戸を占領の際、軍艦引渡しを拒否し函館五稜郭にたてこもり抗戦したが1869年に敗れて帰順、1872年特赦され、北海道開拓使を命ぜられる。
1874年海軍中将兼特命令権公使としてロシアに赴き樺太千島交換条約を1882年には伊藤博文をたすけて天津条約を締結。その後、明治政府内で逓信・文部・外務・農商務省の各大臣を歴任。
1890年子爵を授与された。 「コンサイス人名辞典」(三省堂)より要約
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