(1) 青梅街道
江戸五街道の一つ、甲州街道の脇道であり、慶長年間(徳川家康が江戸幕府を開いたのは慶長8年−1603年)、江戸の城郭や寺院の造営に使う石灰を、産地の成水、小木曽地区(青梅の北)から江戸に運ぶために拓かれました。はじめ御白土街道、成木街道などと呼ばれていましたが、後に石灰輸送が行われなくなると、田無からの支道であった青梅への道の方が多摩地方と江戸を結ぶ幹線道路として賑わうようになり、青梅街道と呼ばれるようになりました。
江戸時代の中頃から、中野や練馬などの近郊農村では江戸市中向けの野菜づくりが盛んになりました。野菜づくりには大量の下肥が必要で、大名などに特別な縁故を持つ有力者が下肥の汲み取りを代代許されている例もありましたが、普通は江戸の武家屋敷や町屋、町辻の公衆便所から代金を払つて調達していました。青梅街道は、明け方は野菜を積み江戸へ向かう荷車で、昼前は下肥を積んで村へ帰る荷車で雑踏したということです。
明治維新後120余年、日本の近代化、東京の大都市化の過程で、また戦争という非常事態の中で、沿道の街は様ざまな変容をとげてきましたが、青梅街道は一貫して大きくなってきました。4〜5間だったのが、大正14年に拡幅され、昭和7年には13間5分となっている(淀橋際本町1〜6丁目)ことや、大正10年8月(中野町誌によれば大正12年)には青梅街道を西武鉄道の路面電車(のちに都電杉並線M番 地下鉄丸の内線の荻窪までの開通により昭和38年11月廃止)が走るようになったこと、現在、交通量の多い東京の幹線道路になっていることからも明らかです。(中野区民生活史第1巻」「エポツクなかの歴史30選」「なかの史跡ガイド」参照)
「堀之内妙法寺記」より
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