(2) 沿道の様子
《明治末期から大正にかけて》 唐沢政次郎・談
あたしの子どもの頃は、青梅街道沿いに新宿から今の新中野郵便局までずつと一列に家はあったんです。ほとんど商家でした。 それから先はずっと畑でね。家の後ろは九尺二間で長屋があるだけであとは全部畑。挑園小学校がここいら(本町4―43)から見えたくらいですよ。道幅も今の半分以下、そこへ電車が入ったんだから狭いもんでしたよ。亀の子電車(当時の西武鉄道のち都電14番)が新宿―荻窪間を通ったんです。人がいっぱい乗っちまうと中野の坂を上がれないので「みなさん、済みません、降りてください」なんて大変な電車でしたよ、単線でね。
昭和4、5年頃だったかな、青梅街道のこっち側、南側がとられて、ずっと道幅が広くなって、亀の子電車も複線になったんですよ。
《大正3、4年から昭和3年の間の話》 小林保雄・談
今の本町2丁目にいた時ですがね。新宿西口にタバコの専売工場があったんです。朝早くそこで働く女工さんたちが青梅街道をひとっきり通って行ったのを見たものです。
《大正末期から昭和初期にかけて》 田口ぎん・談
青梅街道の今の富田屋さんのところ(豊多摩郡中野町大字橋場3934 現・本町4 −21)に大正3年、父が米や乾物を商う店を始めました。そこで生まれたんです。青梅街道沿いにあったお店は、追分通りから石屋の飯塚さんあたりまでと、鍋屋横丁にあったお店が普段買い物に行って賑やかだったところですね。電車だってここまで(現鍋屋横丁交差点あたり)折り返していたんですものね。
《夜店の話》 唐沢政次郎/小林保雄・談
「毎月21日が宝仙寺の大師様の縁日で、賑やかに夜店が出ました。むしろを敷いて品物を並べて売るんですよ。戦争前、昭和12、3年くらいまで続きましたかね。欠かさず行ったもんですよ。」「私もありますよ。」「今のお祭りに出るようなお店が出るのね。露店商の集まりがあってね。お祖師様のご利益なんてやってたのが、次の時には草履を売ってやんの。柴又の寅さんみたいなもんだね。親分がいてね。」「バナナの叩き売りなんかもあったんですよ。一晩ともたない、翌る日はまっ黒になっちまう。 それから将棋もありましたね。大道将棋。」「詰め将棋。あんなの勝てないよ、なかなか。勝つと将棋の本をくれる、そしてお金は払うのよ。台を置いて、その上に蓄音機を置いて、レコード1枚聴かしていくらってのもあった。」 「遠眼鏡ってのもありましたよ。」「大道芸人で全くなくなっちゃったのは、あほだら経ですよ。『チョイト出ました カッチャカッチヤ 無いもの尽くしで申そうならばナントカとナントカはなくて オンバサンノアラブチヤ こいつも無え』なんて言って笑わせるんだ。こういう芸人いなくなっちゃったね。あとなくなっちゃったのは、義太夫みたいな、なんて言ったかな。
《強制疎開》
寺田留次郎(77歳)談
第二次大戦中、車は戦車戦をするために、新宿の大ガードから環七までの青梅街道北側奥行き40間(72m)を地図上で線引きし、3日間で立ち退くように命令を出しました。その際、戦時報国特別債券を出しましたが、戦後はただの紙切れになってしまいました。その時、宝仙寺、浅田醤油(国宝級の蔵がいくつもあったため]、慈眼寺、中野警察、西町天神などは残されました。
江藤利雄・談
当時、鷺宮の中学2年生でしたが、学校から動員されて工場に行くかわりに、街の整理のための仕事といって鍋横に連れてこられたところが自分の家でした。ガスメーターが鉛でできていたので各家から取り外し、慈眼寺の境内に何百と集めました。丸腰の兵隊さんが無人の家に綱を張って、火災防止のため取り壊していました。 その要らなくなった廃材を集めて学校に持って帰ったものを、教師が自分で使ってしまったことを子ども心にもおかしいと思いました。
平成6年現在の青梅街道(鍋横交差点から新宿方向へ)
《疎開通り》
中野通りは、鍋横地域では青梅街道に次いで広い道路ですが、杉山公園から十貫坂上にかけは、戦争中強制疎開されたところがそのまま道路になっており、もともとは「せいぜい2間(約3.6m)幅くらいの通り」(小林保雄・談)だったそうです。それでこの部分を疎開通りと呼んでいる人もあります。
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