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  鍋横物語
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第1章
1 鍋屋横丁界隈の変遷と現在
 (1) 鍋屋
 (2) 鍋屋の跡あたり
 (3) 阿波屋(本町4-44)
 (4) 阿波屋呉服店の角地と安田銀行
 (5) 写真で見る移り変わり
 (6) かさいや製粉の跡
 (7) 巴屋(本町4-21)
 (8) 映画館
2 道の変化とまち
3 神田川の想い出
4 むかしお屋敷、いまは?
5 時の流れを見つめて
6 なべよこめぐり
7 まちを彩るみどり
 
第2章
第3章
第4章


(1) 鍋屋



 渋谷の恋文横丁、品川の青物横丁とならび東京の三大横丁のひとつとして名高い鍋屋横丁。名前の由来ともなっている鍋屋は、草もちなどを出す茶屋として江戸時代大変に繁盛していたそうです。このことは、堀之内妙法寺記にその様子が描かれています。

 また、鍋屋には梅林があって、戦前までその辺り(現在、三菱銀行から阿波屋の駐車場にかけて)は梅屋敷と呼ばれていました。鍋屋の角がちょうど堀之内の妙法寺への参詣道の入り口にあたりましたので、多くの善男善女がここで休憩したと思われます。



鍋屋横丁付近の青梅街道(大正初期) 「中野区民生活史第一巻」より


 鍋屋は、姓を横田といい、代代勘右衛門を名乗っていたようです。当時の鍋屋の繁栄を偲ばせるものとして現在残っているのは東中野1丁目の氷川神社境内の鳥居で「文久二年(1862年)戌年九月 願主鍋屋勘右衛門」と記されています。勘右衛門が幕末の頃に寄進したと思われます。



東中野氷川神社の御影石の鳥居


 また、鍋屋横丁交差点付近にある道標(みちしるべ)(堀之内まで十八丁十間)にもその名を残しています。
  梅屋敷の名残(なごり)として石の橋があります。この橋は、後の持ち主江藤家より歴史民俗資料館に寄贈されました。



「當所角鍋屋」と刻まれている


 (横田 孝/可也(よしや)・談)

 鍋屋の菩提寺は、文京区小日向1−4−11稱名寺(しょうめいじ)にありました。横田家の墓の隣に鍋屋の墓という大きな石碑がありましたが、お寺が空襲にあって、石碑、過去帳など焼失してしまい、現在は残っていません。鍋屋のことを知っている先代の住職も亡くなり、今となってはほとんどわからないそうです。

 (横田きよ・談)

 私か貫一と結婚した時、姑のむめは亡くなっていました。横田家が鍋屋を営んでぃたことを聞いていましたが、詳しいことは分かりません。
  横田家では先祖の勘右衛門をがんえもんと濁って言っていました。



(江藤春雄70歳)・談)

 この石の橋は、祖母が「子どもの頃、梅屋敷で遊んだ時にあったのを覚えている」と話していました。




 この鍋屋は、明治、大正と時代が移り変わると共に衰退し、現在では地名に名を残すのみとなりました。
 その理由のひとつに、鉄道の発達が考えられます。明治22年に甲武鉄道(現・JR中央線)が開通し、中野駅ができました。青梅街道を新宿方面から馬車や徒歩で妙法寺に参詣する途中、鍋屋横丁の茶屋で一服していった人びとが鉄道を利用し、鍋屋横丁を通らなくなったからです。
 また、唐沢政次郎さん(94才)が子どもの頃父親から聞いた話によると、同じ頃、宝仙寺の前で陸軍に馬糧を納めていた「叶屋」という大商人が、現在の蚕糸の森公園の西側(環七寄り)に大きな道を新しく作りました。「叶屋じんみち」*と呼ばれていたそうです。(この道は、環七ができる前まて中野駅から方南町の方面へ行くバス通りでした)
 中野駅で降りた人びとは叶屋じんみちを利用して妙法寺に参詣したと思われます。 このため、鍋屋横丁の道は人通りが少なくなっていったのではないでしょうか。ほかにも、妙法寺参詣道の途中(現在の女子美術大学付近)に「しがらき茶屋」という大きな料理屋があったそうですが、ここも鍋屋と同じく、人通りの減少のためさびれていったということです。

<鍋屋について覚えていること>

(唐沢政次郎・談)

 あれは、あたしの生まれたとき(明治33年1月1日)には、もうないんです。 あそこは材木屋(徳田)になってて、鍋屋の名残もないんですよ。それから、パン屋になったんだよね。今の阿波屋の駐車場になっているところね、あそこはずっと梅があって、梅屋敷って言ってたんですよ。梅林は戦後まであった。

(田日ぎん・談)

その頃(大正末期から昭和初期)、前の方にいくらか梅が残っていましたが、後ろの方には阿波屋さんの家作が平屋で10軒ばかりあって、もう屋敷の面影はほとんどなかったんでしょう。
                          

<写真(下)の燈籠(とうろう)について>

 青橋街道の鍋屋横丁からの道に替って、中野駅からの道が新た参道(桜新道)となった。 
 しかし道筋が分かりにくく参詣人がまごつくため、明治36年にまず木製の常夜燈が立てられ、その後、43年に至って信者の中の花柳界の人びとが中心となって木製の常夜燈にかえて、青銅の燈籠を造立した。(「杉並区の指定登録文化財」より抜粋)



杉並区有形文化財
堀之内新道入口の燈籠


※叶屋じんみち


田中稲荷(杉並区高円寺南1-30)と堀之内新道



 


 田中稲荷神社は「受持神」を祭神とした旧高円寺村の農家の守り神で、高円寺天祖神社(高円寺南1−16)の境外末社です。創建等の由緒については不祥ですが、桃園川沿いに広がっていた水田の中にあったことから、田中稲荷の名で呼ばれるようになったといわれています。
 以前は、毎年2月最初の(うま)の日(初午(はつうま))に村の家々で赤飯を炊いておむすびを作り、神前に供えて豊作を祈願したとのことです。現在でも「稲荷講」として1月遅れの3月の初午の日に近くの商店や町会の人びとによって続けられています。
 当社の前の道は「堀之内新道」です。 この道は中野で馬糧商を営み、日蓮宗の熱心な信者で、妙法寺の檀家総代をしていた関口兵蔵が明治29年に私財を投じて作ったものです。
 中野駅から田中稲荷神社の前を通り、現在の蚕糸の森公園の西側を経て堀之内妙法寺の門前までの農道を整備して道幅4間(7.2m)距離約2kmの新道を作りました。「かいば屋」の叶屋が開いた道なので、通称「かいば屋道」つまって「かいば道」といわれました。
 新道は、参詣人や地元の人々にたいへん喜ばれ、昭和3年、翁の功績をたたえて、地元有志により「故関口兵蔵翁開道記念碑」が建てられました。

平成5年3月 杉並区教育委員会



田中稲内にある開道記念碑

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