(3) 阿波屋(本町4−44)
現在呉服店を営む「阿波屋」は、江戸時代この地で紺屋として有名でした。中野村の藍染めの紺屋は、その後、幕末まで1軒しかなく、手広く商売を行っていたそうです。
嘉永7年(1854年)の諸問屋名前帳によれば、紺屋問屋組合の十番組に名を連ねたほどの紺屋で、慶応2年(1866年)長州征伐の「上金高割小前取立帳」によると鍋屋とほぼ同額の1貫758文を収めています。このことから、当時の繁栄ぶりを伺い知ることができます。
阿波屋は、姓を江藤といい、現当主まささんは5代目になります。(江藤清司さんが調査した資料集より)
現在、工事中の富士銀行のある場所にあったこの建物は、当時としてはモダンな造りでデパートのようです。左端の蔵は現在も残っています。
現在の阿波屋呉服店・・・上の写真の左端に見える蔵と、この写真で建物の右側にある蔵は同じ物です。
阿波屋の想い出
(唐沢政次郎・談)
中野には、当時大きな商人がいたんですよ。青梅街道沿いにね。阿波屋さんでしよ。この近辺から荻窪にかけて有名だったんですよ、「わた幸」つて言ってね。それから油又味噌、肥料屋の森田。
青梅街道沿いの商店のあるところは明るかったね。街灯なんか商店街が作ったからね。一歩中に入ると暗かったけれどね。お客は近辺の人だった。大きな商売を鍋屋横丁でしてたのは阿波屋さんくらいだね。明治から大正にかけて新宿にデパートができるまで、ここから荻窪、吉祥寺の方まで、嫁入り支度をここでしたもんですよ。いいものは阿波屋でってね。おもしろい逸話があるんですよ。先代の時(昭和14年のこと)ですがね、戦争が始まって税金が高くなって払いきれない、それで町会で集まって協議したことがある。 その時にね、阿波屋の番頭さんが来て「旦那の言いますには『国が大きな戦争をするためにお金がいるんでしよ。そのためなら、身上ふるっても払います。博打や競馬で身上つぶしたらご先祖さまに申し訳ないけれど、国のためなら、何とも思わない。』と言うんですよ。」これを聞いて、ガタガタ言っていたのが、しーんとして、みな黙っちゃった。あれには驚いたな。
|