現在はビルとなっていますが、大正末期の鍋屋横丁界隈の地図によると中野の地場産業のひとつ、そば粉の製粉所(かさいや製粉)がありました。現在三味線橋通りと呼ばれているこの道は、以前は「かさいや通り」と呼ばれ、新井薬師へ行く道でもありました。昔の善男善女は、この鍋屋横丁で妙法寺と新井薬師の参詣にと分かれて行ったそうです。
左端に路面電車が見えます
昭和58年竣工