(2) 鍋横交差点の角から
語り部:江藤利雄(大正5年生)
先々代が明治時代の中頃「阿波屋」から分家し、現在地(中央3-34)で商売を始めて以来、昭和34年からの地下鉄工事や都電の廃止など、青梅街道の移り変わりを、見たり聞いたりしてきました。
小学生の頃(昭和10年代前半)は比較的国内が安定していて、鍋横は中野銀座と呼ばれるほどに賑やかでした。商店の種類も多く、歩くだけでも楽しかったです。特に鍋横交差点の四つ角は、しゃれた「東京パン」デパートのような「阿波屋呉服店」ガラス食器が並ぶ洋食器屋と、うちの文房具店があり、文化的な雰囲気を醸し出していたように思います。
地下鉄「新中野駅」は、当初、杉山公園の下(駅名は南中野)に作る予定でしたが、商店会長だった父親が、鍋横の繁栄のため、駅を商店街側にもってきて駅名も「鍋屋横丁」にしようと誘致に奔走した結果、時の運輸大臣の河野一郎の裁定で、現在の位置、駅名に決定したと聞いています。両方の綱引きのせいかどうか、当初、駅の方向案内板に「鍋屋横丁」といれてもらえず地域で張り紙をしたりしたものです。
昭和37年2月に開通の式典が行われ、その様子が作家浅田次郎の「メトロ地下鉄に乗って」に描写されています。
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