(12) みんなで駆け回った追分通り
語り部:鬼沢 信義(昭和10年生)、成沢 博紀(昭和15年生)
菊川 信夫(昭和8年生)、今宮 朝男(昭和8年生)
戦前の追分通りは現在と道幅はあまり変わりませんが、牛車や馬車が行き来していて賑わいがありました。鍋屋横丁の縁日も追分通りまで伸びることもあり、ソース焼きそばやお好み焼きなどの夜店が出ていました。戦争が始まり空襲が激しくなると、青梅街道から中央側の建物は強制疎開のため取り壊されました。さらに空襲により多くの建物が焼失しましたが、中野館跡には焼け残った映写室がたたずんでいました。(写真参照)
終戦後も物が無く、様々な工夫をして遊んでいました。家が印刷屋だったので店にあった鉛を溶かして型に入れ、ベーゴマを作って楽しみました。また、市販の丸いベーゴマはヤスリで削ったり、竹棒の先に挟んで走って道路にこすりつけたりして、相手のベーゴマを下から弾き出すように高さを低くし、八角形に削って勝負に強い形に一生懸命仕上げました。そのベーゴマと即席の台となる厚手のシートを持って、近所の子どもたちと勝負して歩いたものです。勝つと相手からベーゴマを貰える「真剣勝負」もあったので、子供ながらにかなり本気で研究を重ねていましたね。また、学校の運動会が近づくと、練習のために近所の子供同士で追分通り周辺を駆けずり回っていましたね。
また、食べものが少ない時代でしたので、善福寺川までザリガニを取りに行くこともありました。たっぷりバケツ2杯分取って来ても食べられる身の部分は少なく、物足りないものでしたが、母親に天ぷらにしてもらって食べた味はとてもおいしかったことを憶えています。
中野館跡地で戦後を見つめる映写室(写真提供:成瀬 光)
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