(4) 鍋横と東京パン
語り部:新井喜助(大正8年生)
東京パンは1階がパン販売と喫茶、2階が洋食、3階が厨房になっていました。
当時のお客さんの話によると、洋食部はこの辺りでは数少ない洋食器を使用する店で、ポークソティが評判であったとか。また、窓辺から西武電車や青バス・銀バスが、ときたま牛車・馬車も行き交い、交差点には台に乗った交通整理の巡査の姿もあり、町の賑わいを見ていると飽くことが無かったようです。
私と東京パンの関わりは、父が戦後、唯一焼け残った鍋屋横丁店に移ってきてからです。当時は、パン屋にパンのない時代で、各種の食品を扱っていまいましたが、何しろ物不足で物資を集めるのに苦労したそうですよ。
東京パンは日清製粉の子会社で、社長は日清から来ていました。その関係から父が正田家に焼きたてのパンをお届けに上がっていたと聞いています。
昭和25年ごろ(株)東京パンが閉店する際に父が後を引継ぎ、(有)東京パンとしました。その頃にはもう建物も老朽化しており、1階のみでパンや菓子類の販売と喫茶店を営業し、私は喫茶部を担当しました。近くにオデヲン座が出来てからは映画帰りのお客さんが大勢いました。昭和40年代には店を閉まい、現在は東京三菱銀行になっています。
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