(9) 甘くて苦い仁丹の味
語り部:小宮哲郎(昭和6年生)
昭和26年に父親のあとを継いで、三味線橋通りで、ふすま、壁紙から屏風などを幅広く扱う表具店を営んでいました。昭和30年代は商店の数も多く賑わいがありました。
このあたりで印象に残っていることは、戦災で焼け残った高野製粉の蔵にあった焦げたそば粉を、町会の役員の方々が手伝って近所に分けたり、近くを通りがかった人々が仲良く分け合っていた姿です。とにかく食べる物なら何でも良く、薬局で仁丹やニッキの皮を買ってお菓子代わりに食べました。口に入る物ならどんなものでもよく食べた思い出があります。
戦災で焼けてしまったが、仲町小にあった欅は東南の角にこんもりとしていて、いい格好だったんです。旧友が集まると「あれは良かった」と必ず話題になる程皆の思い出になっています。
鍋横交差点にある水準点
水準点:地図作成や土地の測量に使われる地上の高さの基準。
三味線橋の名前の由来
このあたりを通るといつも近くの家で弾く三味線の音が聞こえてきたからだと言われています。(三味線橋傍らの説明板より)
|