(7) 少年車掌
語り部:宮下義勝(昭和6年生)
紺のブレザー、紺の帽子に白手袋、首からがま口の黒革鞄を提げ、都バスの車掌をしていました。昭和22年頃のことです。私が当時18歳で、この年頃の車掌はみな「少年車掌」といい、それが職業名となっていました。
堀の内営業所を起点として、新宿〜堀の内間、堀の内〜代田橋間、荻窪〜東京間を走るバスに乗っていました。
自家用車はほとんど走っておらず、青梅街道の中央を都電が走り、線路と歩道の間をバスが行き交っていました。坂道では止まってしまうくらい気まぐれな木炭バスでしたが、後にアメリカからGMCエンジン搭載の「親子バス」が入ってきましてね、たくさん人が乗れるようになりました。
乗るときに押し合いへし合い、切符を買えないお客には、降りるときに自己申告で運賃を貰っていました。それでも悪い人はいなくてね、皆ちゃんと払ってくれましたよ。杉山公園の辺りで事故が起こって、線路を外れてけが人を病院まで運んだときにも、乗り合わせたお客が付き合ってくれました。気のよい時代のことです。
最終便でお客を送ったあと、営業所に戻り、その日の運賃と切符を合わせ、鞄を逆さにして底をポンポンと叩いて返しました。これが中に何も入っていませんよ、という合図なわけです。締めくくりにまきで沸かしたお風呂に入って、1日の疲れをとりました。
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