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鍋横物語 (第4章)  
  鍋横物語
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第1章
第2章
第3章
第4章
1 鍋屋横丁界隈
 (1) 戦前の鍋横は中野の銀座
 (2) 老舗−阿波屋呉服店
 (3) 昭和初期の鍋横交差点
 (4) 鍋横と東京パン
 (5) 昔なつかし東京音頭
 (6) 「ジュー」ソースにつけた串カツの音
 (7) 少年車掌
 (8) 昭和30年頃の三味線橋通り商店街と追分通り
 (9) 甘くて苦い仁丹の味
 (10) オドヲン座を語る
 (11) 私と追分通り
 (12) みんなで駆け回った追分通り
 (13) 炭の俵は長方形
2 賑わいのあった鍋横商店街
3 銀杏が見ていた風景
4 地域の人の憩いの場
5 水車のある風景
6 川と田んぼ
7 地域センターの辺り
8 周年行事を迎えて
9 時代


(7) 少年車掌

語り部:宮下義勝(昭和6年生)



 紺のブレザー、紺の帽子に白手袋、首からがま口の黒革鞄を提げ、都バスの車掌をしていました。昭和22年頃のことです。私が当時18歳で、この年頃の車掌はみな「少年車掌」といい、それが職業名となっていました。
 堀の内営業所を起点として、新宿〜堀の内間、堀の内〜代田橋間、荻窪〜東京間を走るバスに乗っていました。
 自家用車はほとんど走っておらず、青梅街道の中央を都電が走り、線路と歩道の間をバスが行き交っていました。坂道では止まってしまうくらい気まぐれな木炭バスでしたが、後にアメリカからGMCエンジン搭載の「親子バス」が入ってきましてね、たくさん人が乗れるようになりました。
 乗るときに押し合いへし合い、切符を買えないお客には、降りるときに自己申告で運賃を貰っていました。それでも悪い人はいなくてね、皆ちゃんと払ってくれましたよ。杉山公園の辺りで事故が起こって、線路を外れてけが人を病院まで運んだときにも、乗り合わせたお客が付き合ってくれました。気のよい時代のことです。
 最終便でお客を送ったあと、営業所に戻り、その日の運賃と切符を合わせ、鞄を逆さにして底をポンポンと叩いて返しました。これが中に何も入っていませんよ、という合図なわけです。締めくくりにまきで沸かしたお風呂に入って、1日の疲れをとりました。

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