(1) 昭和初期の食料品店
語り部:高野マサ(大正4年生)
昭和16年、宇都宮から鍋横の葛西屋に嫁いできました。本家は瀬戸物屋でしたが、家の奥に製粉所もあり、蕎麦粉を挽いて近辺の蕎麦屋に売っていました。裏の空き地はそば殻がいっぱいに積まれ、それをまき代わりに使っていました。すごく暖かかったのを覚えています。私の家は分家の乾物屋(現スーパーコーノ)だったからでしょうか、旧本町通り4丁目町会の配給所となりました。
主人が徴兵に行き、後を母とふたりで朝くから店に並んで配給を取りに来るお客さんのために砂糖や油を一日中、計り続けたものです。なにしろ物がない時代ですから、砂糖など外に置くと、すぐさま袋ごと無くなったりしましたね。配給の品物は砂糖、米、卵、魚、薬とかいろいろ扱っていて、中でも一番喜ばれたのはチョコレートでした。大人気で分けるのに大変苦労しましたね。
青梅街道の北側はみんな強制疎開となり、店はNTT近辺にあった鍋横市場で開くことになりました。その後、当初の道路向かいに移りました。北向きなので冬など北風が吹くと非常に寒かった思い出があります。現在の場所に戻ったのは、昭和26年頃です。今では鍋屋横丁で通じますが、当時は“鍋屋横丁前”と言いなさいと父によく注意されましたね。
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