(11)真言宗豊山派 慈眼寺(中央3-33)
本村修補住職・談
当院は、初め慈眼堂橋(堀越学園そば)の西方に位置していましたが、江戸時代に現在地に移りました。境内左手にある氷川堂には、大変慈悲深く「生き仏」と慕われた僧・覚順※1を祀ってあります。金色のパコタは、タイ国バンコックにある王立一級寺院ワット・サケートより寄贈された釈尊の遺骨一粒(カピラバストウにて出土されたもの)が奉安されています。
文化13年(1816年)再建の馬頭観音は、角柱が道しるべになっていてもとは追分三又路にあり、左あふめ(青梅)道 右いくさ(井草)道と記されています。また、庚申塔は元禄年間(1690年〜1742年)のものが6基あり、そのうち4基は青梅街道沿いにあったものを道路拡張の際に桃園第三小学校の欅の下に移設、さらに昭和30年、当院境内に安置したものです。 その時、一緒に地蔵尊※2も移しました。
「古くは、桃三小の欅周辺も寺領であったので、昭和20年5月に戦火で焼失した寺を再建する時に、木材として欅を使おうとしましたが、請われてやめました。」
街道沿いから移設された庚申塔
※1 僧・覚順
村人に大変慕われていた15世氷川坊覚順は、江戸時代末期の僧侶で東中野氷川神社の別当職も兼ねており(江戸時代は神仏混合)、神社の敷石を補修しました。そのことは、神社の第二鳥居右手の石柱に記されています。
※2 地蔵尊
この地蔵は、西行寺(西町天神の東側にあった)から桃三小の欅の下に移されたという地域の人もいます。
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