(7) 薬師堂
この薬師堂は、元応元年(1319年)には下記地図の場所にあったとみられていますが、明和年間(1764年〜1771年)に火災により焼失したようです。本尊として祀られていた薬師如来は、福寿院(本町3-!2)に移され現在も秘仏として大切に祀られています。 このことは、福寿院本堂脇の板碑(大正3年10月建立)によって知ることができます。薬師如来は、弘法大師が諸国回遊の折りに当地へ立ち寄り作成したとも言われています。
薬師堂と呼ばれた本郷村の西の方の地域は、延宝2年(1674年)に本郷村から分かれて一村を形成し、村名を本郷新田と名付けました。また、江戸時代の薬師堂の様子については、文政11年(1828年)に書かれた「新編武蔵風土記稿」に次のように記載されています。
百二十四
「除地百二十坪、村ノ北寄ニアリ(中略)、堂ノ背後二堂山トイフ所アリ、此薬師二附セシ山ナリト云、ソノ傍二薬師堂村トテ民家十二、三軒アリ ココノ田畑モ此薬師ニヨセシモノナリト云ヘリ」
記述にあるように、推定人口40人弱の小さな村であったと思われます。
この薬師堂ぱ地名として残り続け、大正12年発行の地図にも掲載されています。昭和3年に現在の中野本郷小学校が開校される前の準備段階では薬師堂尋常小学校と言われていました。
「この辺は、大字本郷小字薬師堂といって、子どものころは堂山゛といってよく遊んだものですよ。
黄色い水がいつも浸み出てました。それは、釣り鐘が埋まっているからと聞いたことがあります。」(津田正治・談)
※堂山は、秋津子育て地蔵尊の周辺
なお、上の図は、大正11年発行の地図を元に、薬師堂のあった辺りを示したものです。
|